動物行動学からみる人材教育<休息を与える>

-----ゆっくり歩けない馬や走れない馬は存在しません-----

ウエスタン馬術のレイニング、カッティングホース、イングリッシュ馬術の高等馬場馬術、障害飛越など馬術には様々なものがありますが、これらに共通する事があります。どんな馬術であっても、どれほど素晴らしい演技であっても、それはその馬がもともと出来る動きでしかありません。前に進めない馬はいませんし、素早くターン出来ない馬はいません。ゆっくり歩けない馬や走れない馬は存在しません。馬術で求められるあらゆる動きは、馬本来の動きでしかありません。
それではライダーは一体何をトレーニングするのでしょう。

ライダーは馬を思い通りに動かすためにトレーニングをします。ライダーが意図した瞬間に意図した動きをさせる事がトレーニングの目的となります。馬単独では難なくこなせる動きでも、ライダーの指示した瞬間に指示通りに出来るとは限らないからです。
ライダーの指示した瞬間に指示通りに動く馬にすることは簡単ではありません。まだその中でも前進後退のように馬本来が得意とする動きであれば比較的教えるのも楽なのですが、解剖学的に見て馬が苦手とする横の動き(内方後肢一本を軸として馬体が360度回転するターンアラウンドなど)を教えるのは困難を極めます。



-----行動科学はすべて動物行動学から発展してきました-----

ここで駆け出しのライダーは大きなミスを犯します。初めから完成形を求めてしまうのです。もともと馬という動物が苦手とする横の動きを教えるのですから、横への動き方から教えなければなりません。例えば右方向への横の動き方一つとっても、前肢の動きだけで次の2通りがあります。

     (1)左前肢が右前肢の前を通って右へ移動する
     (2)左前肢が右前肢の後ろを通って右へ移動する

ライダーが教えなければならないのは(1)なのですが、これを教えるだけでも大変難しいことです。であるにもかかわらず、駆け出しのライダーは一度に360度の回転を教えようとして失敗してしまいます。

上手なライダーは左前肢が右前肢の前を通って一歩進めた瞬間に止めてほめます。馬にとって休息が喜びであることを知っているからです。休息を与えられた馬は「左前肢が右前肢の前を通ったこと」が正しかったことを認識します。こうして一つずつの動きを確実に積み重ねることで、数日かけて最終的に正しいステップで360度の回転運動が出来るようになります。
新しいことを教える時には、それが出来た瞬間でも、本当にできるようになったのかどうかが不安になるものです。しかし上手なライダーであればあるほど一歩あるいは数歩でOKを出します。せっかくできるようになったのに長い時間それを続けられると、馬は「これではダメなのかも」と考えてしまうからです。



-----これが「小さな成功体験を重ねさせる」の真意です-----

良かったならばその瞬間にそれを伝えるのがトレーニングの真髄となります。
ここで上手なライダーが心がけていることがあります。それは「毎日の最後は小さくても良いから成功で終わる」というものです。馬に「失敗したという記憶」を残したまま終わることはしません。だからこそ小さな成功ステップを積み重ねていく方法を採るのです。
これが最近よく聞く「小さな成功体験を重ねさせる」の真意となります。

駆け出しのライダーは「左前肢が右前肢の前を通って一歩進めた」瞬間に休息を与えず、その次のプロセスに進もうとします。こうなると馬には何が良くて何が悪かったのかがわからなくなります。時間ばかりかかっていつまでも馬にOKを出すことが出来なくなります。馬は生きていますのでトレーニングが長時間に及ぶと当然疲れます。こうして最後は馬に「失敗したという記憶」を残したままトレーニングを終えなければならなくなります。こうなると馬はその一日の中で良かった動きを忘れてしまいます。せっかくの長時間のトレーニングが全部水の泡になる瞬間です。馬にとっても人にとっても良いトレーニングだったとはいえなくなってしまいます。



-----馬は寝ている間にその日を反省します
      
     (「ほめて育てる」の真意)-----

一つの事ができたなら、続いて次の事をさせるのではなく、一度プレッシャーを完全に開放して休息を与えるようにします。それがその馬にとって難しい事であったならば、その日はそれだけで終わりにすることもよくあります。
馬は夜寝ている間に、なぜ叱られたのか、なぜ褒められたのかを考えると言われます。
せっかく難しい動きが出来るようになったにもかかわらず、休息を与えずに続けて次の事をやったところ、うまくいかなかったとします。馬は「失敗した」というプレッシャーを感じたまま夜を迎えます。夜の間に馬が考える事はなぜ叱られたのかだけとなります。こうなるとやっとの思いでできるようになった事を忘れてしまいます。あえてそれだけで終わりにする事で、なにが良かったのかを確実に理解できるようになります。こうして一つずつ完成形に近づけていくことができます。

最近「ほめて育てるのが良い」と言われますが、これがその真意です。
動物行動学の世界では、かなり以前からクリッカートレーニングなど「ほめて育てる」ことが行われてきています。特に馬は力も体重も人の何倍もあります。叱って育てるにはリスクがありすぎるのです。



-----一度に多くの事を求めるのではなく、一つずつ確実に-----

人も同じです。
税法のようにとにかく自分の知識を増やせばスキルアップが出来るものは別として、営業のように自分のスキルアップだけでは上達しないものの場合には、一度に多くを詰め込んでも消化不良を起こすことは多くの人が経験していることでしょう。逆に時間がかかっても本当に大切な一つをマスターすることによって、飛躍的にスキルアップすることもよくあります。
税法のようにどこまで理解したかを客観的に判断しやすいものについては、上司も部下のスキルアップ度合いをある程度確実に認識することが可能です。しかし営業のように客観的に理解度を測ることが難しいスキルについては、多くの場合つい上司が先走ってミスするケースが多いようです。
人は馬と違って頭で理解することが出来ます。さらには質問者の意図を読んで回答することも出来ます。頭で理解していることと、実際に行動レベルでこなせることは違います。このギャップを目の当たりにした時、人は「わかっていてなぜ出来ないんだ?」と言います。この一言は大きな間違いです。「それがわかっていないから出来ない」のです。頭で理解していても出来ないことはたくさんあります。だから昔から本当に理解したことを「腑に落ちる」と言うのでしょう。

「今から教えることを腑に落とせ」と言っても無理な話です。本当に理解させるためには、それなりの手法があります。一度に多くを求めてもその人が潰れてしまうだけです。馬も人も機械ではありません。きちんと休息を与えることで、一つずつ着実に完成形に近づけることが出来るのです。